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足利尊氏が後醍醐天皇を妄信的に崇拝していたであろうという事実は、勅撰集からも見受けられる。例えば、『新千載集』の後醍醐天皇の歌「立ちよらば~」の直後に尊氏の「諸人も~」の和歌が入集しているところからもうかがえる。さらに、この後醍醐天皇の和歌は重複入集であるから、尊氏が後醍醐天皇の和歌を意図的に入集させたのであろう。尊氏の和歌の現代語訳は「われわれ臣下一同は帝の正しい治世に感謝し、帝のために尽力いたします」といったところか。また、義詮「みよしのの~」、尊氏「こもりえの~」、後醍醐天皇「おしなべて~」、為藤「みよしのは」の順で並んでいるのだが、尊氏以外の三者が「みよしの」を詠んでいるにも関わらず、尊氏のみ「桜」を詠んでいる。普通勅撰集では同じ題の歌を並べる傾向があるから、「みよしの」の和歌が並んでいる中に尊氏の「桜」が混じるのは不自然である。これは撰者の意図というよりも、時の権力者であった尊氏の意思が働いていると考えるのが妥当ではないだろうか。足利尊氏が自身と後醍醐天皇の親密さを勅撰集を通じて周囲に知らしめようとしているように思えてならない。後醍醐天皇の鎮魂のために尊氏が指示して編纂された勅撰集と考えても過言ではない。尊氏は帝を敬愛しながらも、帝が怨霊となり害をなすことを恐れたのであろう。
足利直義の和歌「世のために我も祈れば限りある命なりとも長らへやせん(あなたの病気が良くなることを心から祈っています)」は直義の性格がよく表れている一首。
(参考:深津睦夫『中世勅撰和歌集史の構想』)


軍記物語では、悲劇の英雄と対比して憎まれ役になる悪役が登場するのが常であるから、『太平記』に描かれている高師直像も「軍記物語」における憎まれ役(というよりも損な役回り)で描かれているのか。父に溺愛された美貌の五郎師夏、また文化人として教養のある高師直(『大日本史料』より)。康永三年に足利直義が奉納用の和歌を募集した際、高師直も「しらゆきの~」という和歌を詠みわたしているから、足利直義と高師直の仲は最初から悪かったわけではないように思える。また同和歌より師直の贖罪の感情が見え隠れするようにも思える。『太平記』にみえる粗暴な性格の師直との対比が面白い。『太平記』では高師直を悪役にしたいような雰囲気が読み取れるが、実際の高師直が無教養な武人ではなかったため、粗探しをしているようにも感じる。
『源威集』の尊氏は有職故実に通じており、仏事もおろそかにしない人物として描かれている。冷静沈着かつ豪放磊落な性格であり、執着心のない理想的な人物とされている。武略・弓馬に限らず、詩歌管弦・有職故実方面にも教養のある家柄であるとされている。筆者が尊氏に傾倒しているさまがよく見える。
『平家物語』における木曽義仲と『太平記』における新田義貞について。軍記物語の作者の意図について。軍記物語の特徴から比較して考察するもの面白そう。あとは『保元物語』や『平治物語』あたりとも比較できそう。足利尊氏の矛盾の中で面白いところは「後醍醐帝に叛きたくない」という意思がありながらも「直義が死ぬかもしれない」状況に陥ると、「後醍醐帝に叛く」ことも厭わずに出陣するところである。中先代の乱の際も後醍醐帝の言葉を聞き入れず出陣し、鎌倉奪還後は愛弟直義の言に従い鎌倉にとどまり、義貞軍が後醍醐帝の命を受け尊氏討伐の兵をあげた際、一度は出家遁世すると言い引きこもるが「直義危うし」の一報を聞くや否や後醍醐帝に叛くことになろうとも直義救援に向かうのである。この部分から、尊氏にとって一番大事な人間は「直義」であり「後醍醐帝」はその次であるということが伺える。また後醍醐帝びいきの尊氏が『梅松論』では「このたび君花山院に……」のように述べているのも面白い。私には尊氏の性格や物事の捉え方がまったくもってわからない。このつかみどころのなさが当時の人々には頼もしく見えたのではないだろうか。
(参考:加地宏江『中世歴史叙述の展開』)

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