※注意事項※
足利直義の死の描写があります。
実は師直と直義の死には、尊氏が関与していたのではないか、という妄想が含まれています。
そのため、尊氏が非情な人物として描かれています。
胸糞エンドです。苦手な方はご遠慮ください。
何でも許せる方向けです
□曼珠沙華
――延福寺
直義は思うように動かぬ体を横たえ、与えられた部屋の隅からぼんやりと外の景色を眺めていた。春を喜ぶ小鳥が羽ばたき、囀っている。
俺は、兄の幸せをただひたすらに望んできた。兄のためならなんだってやれる。己の心を殺すことすら厭わない。それが、俺にとっての幸せなのだから。兄に必要とされることが生きている意味であり、兄に必要とされなければ生きている意味など皆無なのである。
しかし、もはや兄に俺は必要ないのだ。否、そもそも自分が兄にとって必要な存在であると思っていること自体が傲慢なのだ。
自分が生きていることで、兄を苦しめ続けているのならば、俺が最後に兄のためにできることは――
ずっと、二人で一つだと思っていた。二人なら何でも成し遂げられると思っていた。俺に兄が必要なように、兄にもまた俺が必要なのだと。俺たち兄弟はさながら比翼連理の関係なのだと。そう、思っていた。
しかし、それは全くの幻想で。直義の願望にしかすぎなくて。もともと兄は天穹を思うが儘に羽ばたくことのできる自由な小鳥だったのだ。俺は、兄が居なければ、飛ぶことは疎か、囀ることも侭ならぬというのに……
囀ることすら叶わない哀れな鴆は、己の羽毛の毒で死に至るのである。
冬の終わり。あたたかな風が心地良い、春二月。
ゆっくりと目を閉じると、かつて故郷で兄とよく遊んだ曼珠沙華が咲き乱れる美しい川辺が見えた気がした。
***
饗庭氏直は走っていた。早く、早くこの事実を主人へと伝えなければ……!
「御所! 一大事でございます」
「直義が、死んだか」
弟の死に対して、氏直の主人尊氏は驚くほど落ち着いていた。まるで、弟の死を予知していたかのような尊氏の素振りに、氏直は一瞬怖気を感じた。
「は、はい。今朝、御様子を御伺いしたところ、既に事切れておりました。服毒による自決のようです」
「そうか……」
「……」
暫し、沈黙が流れる。尊氏は無表情で鳥籠の小鳥を眺めながら、氏直に問う。
「直義は、最期に何か俺への恨み言を言っていなかったか?」
「いいえ、何も」
不意に、尊氏は床に拳を叩き付けると大声で泣き始めた。その衝撃で、鳥籠の中の小鳥が驚いて逃げ出す。氏直も驚き、より深く頭を垂れる。
「ばかだ……! 俺も、お前も……! 何故こうなってしまったんだ……! これが悪い夢だというのならば、早く覚めてくれ……! 直義……直義……! 何故俺を置いて逝ったんだ!」
慟哭する主人の傍らで、氏直は胸を押さえる。この胸の痛みは、主人を思っての痛みではない。主人の弟への嫉妬心である。
己の死をもって、自分という存在を主人に深く刻み付け、生涯忘れることの無いようにあえて恨み言を言わなかった主人の弟を憎く思うが故の痛みである。
(直義さまは、残酷なお人だ。主人に恨み言の一つや二つ、残してくれれば私が主人をお慰め申し上げたというのに。これでは、主人は生涯貴方を忘れることができないではないか! 貴方というお人は、なんと残酷な弟君でありましょうや!)
氏直は、美しい顔を悔しさで歪めながら、その場から静かに立ち去った。
□墨香
夜風が無情に肌を撲つ真冬。墨の香りが仄かに空気に溶け込んでいる室内で、尊氏は一人静かに大乗経を写していた。
「師直、そろそろ……」
師直、と呼び掛けてからはっとする。師直は既にこの世にはいない。
(そうだ……師直も、直義も、俺のために死んだ。否、俺が二人を殺したのだ)
師直は数年前に俺が殺した。直義も、その一年後に俺が殺した。
表向き、師直は直義派の武将らに殺されたことになっている。本当は、師直を持て余した俺が、上杉らに師直を殺害できるように仕向けたのだった。和睦したところで、師直一派と直義一派の関係性を修復できるとは思わなかったからだ。師直には申し訳ないことをしたと心底悔やんだ。だが、将軍として、師直を切り捨てる他、選び取ることができる道がなかった。
そして、一年後には兄想いの心優しい直義を利用して、服毒自殺するように促した。直義は黄疸による突然死ということになっている。猶子基氏の元服を見届けた後、安心しきった直義はあたたかな春の風と共に彼岸へ渡ったということになっている。直義ならば、俺のために死ぬことを厭わない。本当は直義の気持ちに気付いていた。気付いていながら、俺はその気持ちを利用したのだ。直義と共に創った幕府の秩序を乱さぬために。これ以上、戦火が広がらぬようにするために。そのためには、直義に死んでもらうほか仕方がなかったのだ。
本当は二人を殺したくなどなかった。
だが、俺は幕府の安泰と二人の命を秤にかけて、幕府の安泰を選んだのだ。当然許されるべきではない。あれだけ自分に尽くしてくれた執事も、俺を俺以上に想っていてくれた弟も、蜥蜴の尾を切る様にいとも容易く命を奪った。
敬愛していた帝も、自分の身を守るために裏切った。幼き日、共に手を取り合って歩もうと約束した義貞も、盟友として親しく夢を語り合った正成も、みな俺が殺したのだ。
「痛……」
最近、背中に二つの腫物ができた。よくよく見てみると、人の顔のようである。どことなく、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
(きっと多くの人を殺した罰だ)
人の顔をした腫物は、怨嗟の声を上げるかのように、幾度となく膿を吐き出した。その激痛で何度も意識を失った。次に眠った時には目が覚めないのではないか、という恐怖に苛まれる。いっそ、目が覚めなければよいのに、とも思う。穏やかに、最期の瞬間を迎えられたら、と何度も願った。
(しかし、俺は安らかに永眠ることなど、許される身ではない……)
尊氏は痛みを堪えつつ、再度筆を執る。せめてもの罪滅ぼしである。薄い色をした墨を筆に含ませ、写経を再開する。
――尊氏は今日も独り、墨の香りと夜を共にするのであった。