上洛デビュー(源為朝・保元物語ネタ)
『そのとき門の上から、人間業じゃない勢いの矢が放たれたのです…』
(あ、あれは誰だー!誰だー!誰なんだー!)
『それは…八郎でーっす☆ああーっ、ちょっと(清盛)撤退しないでください!
鎮西パワーで劣勢もチェーンジ☆
夢と希望と強弓をひっさげ 八郎、がんばっちゃいまーす☆』
鎮西 八郎 為朝! ×3
西門絶対 守ります!
強弓OK 先細OK 放つ矢 人間 撃ち落とす
鎮西八郎 名乗って暴れる
「九州・平定・大暴れ☆」
乗馬はNG 頼長NG 絶対 兄貴は 夜襲来る
これでもちゃんと バカじゃないんです
「清盛以外は 敵じゃないっ!
政清の 射った矢 頬に掠って激怒する
為朝 斬りこんだ
『ハッ、こ、こんなことしている場合じゃない!?追いすぎちゃった~! からのっ、いち!に!射撃!』
鎮西パワーで 狙いは外さない
景義と景親 射落としたけど うー 逃げられた!
一本の矢で 二人を射殺す
八郎の太矢
「キャハッ! ラブリー17歳 ブイッ」
大事な大事な 戦力だモン!
「わーんつー! せーの! ハイ!」
鎮西 八郎 為朝!! ×3
意外と病弱 為朝!
たいへん仲の良い足利尊氏・直義兄弟は豊浦宮の忌宮神社に法楽和歌を奉納します。
まずは直義の法楽和歌から。(たしか自筆だったはず。違ったらすみません)
「神功皇后宮者本朝鎮護之大廟……」
まあ普通の書き出しですよね。ですが、尊氏の方は
「西国下向之時参詣長門国神宮皇后……」
神宮!!??神功皇后じゃなくて!!??
私の知識不足だったら大変お恥ずかしく申し訳ないのですが、いくら同音であればどんな字を当てても構わないようなルールの南北朝時代だったとしても、神宮皇后はまずいでしょ!!
なぜ直義も奉納する前に教えてあげなかったのか…それとも指摘されたけど「最後までかいちゃったし、なおすの面倒だからまあいっか☆」的なテンションだったのか…謎ですね。
ちなみに尊氏の和歌は
「この御代はにしの海よりをさまりてよもにはあらき波風もなし」
「いにしへの二つのたまの光こそくもらぬ神のこころなりけれ」
直義の和歌は
「神かきは八重のしほちをへたつれとこゝろつくしそいまもわすれぬ」
「いにしへは人の国まてなひきける神のめくみも今そしらるゝ」
※画像は『足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』より引用(35頁)
尊氏が直義のために奉納した清水寺願文は有名じゃないですか。
しかし、尊氏が奉納した願文ってそれいがいにもたくさんありまして、康永三年に祇園社に祈願した自筆願文がヤバイんです!!!
既にご存知の方も多いかもしれませんが、内容を抜粋すると
「直義が尊氏の命で経を読んで、師直は神楽を奉納した」
なんです!!ちょ、尊氏どうしたの??って感じですよね。テンションたかうじ。
もちろん尊氏自筆でかなで願文を書いているのですが、しかもその文章もいちいち面白いんです。
「俺の幸せを直義にわけてあげてください;;はやく出家させてください;;」
と謙虚にしていた尊氏とは、もう別人。だれおま状態です。その超意訳が以下になります。
「今日、私足利尊氏は祇園社で祈祷しました。直義に『大般若経』読ませて、師直にはお神楽させたけど、祈祷してるのは俺、尊氏だからね!大事な事なので二回書きました!」
です!!ほんとうに何があったんだよ…と突っ込みたくなりますが、私が予想するに、この頃の足利政権は絶好調(とまでは言えないかもですが順調)な時期で、尊氏・直義・師直の3者が上手くいっていた頃なんですよね。そんな状態だから尊氏も気持ちがちょっと大きくなっちゃって、公賢に「娘の事、手紙で姫♡呼びしたい」と相談して「好きにすれば?」と言われたりしてたんじゃないかなあと。寝殿建てたり、弓の腕もゼッコーチョーですしね。その後の事を考えるとたいへん心苦しくはあるのですが、以上尊氏のかわいいエピソードでした。
マジカル管領☆細川政元は40歳になっても童貞で魔法使いになる練習をしており、政務を投げ出して諸国放浪の旅にでたがったり、舟遊びばかりしていました。その上驚くことに、細川政元は京兆家の当主でありながら大の女嫌いだったのです。しかし、いくら女嫌いだからといって後継ぎがいないのでは困ります。そこで政元は仲の良かったヤ〇ザ公家九条政基のこどもを引き取り、政元の幼名とおなじく聡明丸と名付けて可愛がりました。
ほどなくして、聡明丸は元服し九郎殿と呼ばれるようになりました。ところが政元、「やっぱり細川の血が流れていない よそ者を京兆家の当主にするのはいけないね」と心変わり。阿波国から澄元という男の子を連れてきて跡を継がせようと考えました。澄元が京兆家にやってくると、政元は大喜びしました。そのさい、最初の養子であった澄之は廃嫡されてしまいました。
当主の言動があまりにもアレだったので、内衆たちは大変悲しみ、おおいに困ってしまいました。そこで薬師寺元一と赤沢宗益は「このままでは京兆家自体が滅びてしまう。なんなら当主の政元を排して俺たちが京兆家の主導権を握ろうぜ」と意気投合。早速作戦会議をはじめました。
しかし腐っても管領。政元は速やかに薬師寺・赤沢の反乱を鎮圧。死に際して元一は「皆々様ご存知の通り、私は『一』の字が大好きだ。名前は薬師寺与一、名乗りも元一、この寺も一元院と名付けられている。そうであるから、自害をするときも腹を『一文字』に切って立派に死んで見せようではないか!」と言って己の腹を掻き切りました。そのとき元一は「めいどにはよき若衆のありければ思ひ立ちぬる旅衣かな(表向きの意味:あの世には良き私の主がいるだろうから、私はこの世から旅立つのですよ)(裏の意味:政元テメー男漁りばっかりしてんじゃねーぞバーカ!)」と政元が大の男色家であることをバラしてしました。
元一の死後は、弟の長忠が摂津上下の守護代となり、栄華を極めました。保元の昔も君の命に従い、義朝が父為義の首をとり源家の長者となり栄華を誇りました。今回、弟の忠長が兄のたて籠る城を攻め落とし、栄華を誇るという事も世の理なのでした。(のちの没落の暗喩)
さて、政元42歳の時。永正4年、六月廿三日の夜。政元の行水中に事件は起こりました。
養子を二人も迎えたことで、内部分裂していた細川京兆家。九郎澄之を擁する薬師寺忠長と香西元長に同心した福井四郎と竹田孫七に、政元はあっけなく暗殺されてしまいました。澄元が当主になったら自分たちの出番がない。香西元長らは私利私欲のために、主である政元を暗殺してしまったのでした。
主である政元を暗殺した香西元長と薬師寺長忠。次の狙いは澄之と同じく、政元の養子になっていた澄元の命です。不意を突かれた澄元たちは、香西らの軍に攻め立てられいったん退却します。政敵を追い落とした香西・薬師寺らは澄之を京兆家の当主に担ぎ、恣に振舞いました。しかし、澄元派も黙ってはいませんでした。八月一日、澄元軍は三好らと合力し、京都へ攻め上ります。所詮烏合の衆でしかなかった香西・薬師寺軍はあっという間に劣勢に。主殺しという大罪を犯した彼らに大義名分などありません。今回の戦の勝敗も、大義のない香西たちが負けるというのは世の道理なのでした。
覚悟を決めた澄之は、本当の父親である九条政基に最期の手紙を書くため、硯と筆を執りました。
「父の望む京兆家の当主となったのに、このような憂き目にあってしまいましたことは、本当に情けのないことでございます。本来ならば子である私が親の菩提を弔わなければならないのに、親に先立ちあべこべに菩提を弔われる側になってしまうのはたいへん悔しいことです」そこまで書くと、澄之は静かに辞世の句を詠みました。
梓弓はりてこころはつよけれど引手すくなき身とぞなりぬる
筆を置くと、澄之は髪を少しばかり切り、己の目から溢れ出てくる涙と共に切った髪を手紙に添えました。自分で書いた手紙を名残惜しそうに眺めたのち、控えている局へと手紙を託しました。そののち、澄之は伯耆を呼び寄せてこう言いました。
「私は公家の身分であった故、武家の作法である切腹の仕方を知らないので、教えてほしい」
伯耆が「自害というものは、まず西を向いて十念し、御腰の物を抜き、脇に刺し立て、右の脇へ引廻し、かえす刀で御心もとにさしたてて、袴の着ぎはへ押しおろすのでございます」と答えると、澄之は教えられた通りに腹を切りました。伯耆は泣く泣く澄之の介錯をすると、すぐに自分も自害し果てたのでした。澄之はまだ19歳という若さでした。
TA・DA ☆ YO・SHI
轟け!朕のビーンボール!
持明院「北条、私を皇位につけてって!」
北条「持明院統と大覚寺統、交互でいいかな?」
大覚寺「プレイボーイ!><」
倒幕するなら立川流で討て!(グワァラゴワガキーン!)
逆境だ狙うにも
朕は孤高のアウトロー!
(ハイ!ハイ!ウ~~~~!島流し!)
倒幕したいなら
根回しちゃんとやれ!(綸旨!)
足利篠村寝返るもん
尊氏「私、帝についていくんだから~!」
みなさん「ヘイヘイ執権びびってるー」
みなさん「ヘイヘイ長崎びびってるー」
みなさん「ヘイヘイ金沢びびってるー」
みなさん「ヘイヘイみんながびびってるー」
赤坂城のヤバいアイツをめがけ
くさいとこ(ハッ!)
ついていこ(ヤッ!)
新田義貞
「いくぞ!必殺!稲村モーゼそれからえっと
いざかまく(省略されました
みなさん
「アウト!セーフ!アウト!セーフ!アウアウセフセフ!
セフセフアウアウアウアウ!」
幕府軍
「緒戦で名越殿討ち死に
踏み荒らされた幕府軍
あいつの出番を待っている
あいつはまだか!急げ!足利軍!」
行くぜ!六波羅へ!
勝負はそうここからよ
今こそ源氏の天下!
尊氏「ぜんぶ投げ出したい…」
燃える鎌倉幕府
一門全員切腹さ
朝令暮改だ
内裏造立だ
男らしく抱いて!
フリーダムエンペラー!!
いざゆけ!
とびだせ!
吠えろ!
燃えよ!
建武親政!
足利尊氏が後醍醐天皇を妄信的に崇拝していたであろうという事実は、勅撰集からも見受けられる。例えば、『新千載集』の後醍醐天皇の歌「立ちよらば~」の直後に尊氏の「諸人も~」の和歌が入集しているところからもうかがえる。さらに、この後醍醐天皇の和歌は重複入集であるから、尊氏が後醍醐天皇の和歌を意図的に入集させたのであろう。尊氏の和歌の現代語訳は「われわれ臣下一同は帝の正しい治世に感謝し、帝のために尽力いたします」といったところか。また、義詮「みよしのの~」、尊氏「こもりえの~」、後醍醐天皇「おしなべて~」、為藤「みよしのは」の順で並んでいるのだが、尊氏以外の三者が「みよしの」を詠んでいるにも関わらず、尊氏のみ「桜」を詠んでいる。普通勅撰集では同じ題の歌を並べる傾向があるから、「みよしの」の和歌が並んでいる中に尊氏の「桜」が混じるのは不自然である。これは撰者の意図というよりも、時の権力者であった尊氏の意思が働いていると考えるのが妥当ではないだろうか。足利尊氏が自身と後醍醐天皇の親密さを勅撰集を通じて周囲に知らしめようとしているように思えてならない。後醍醐天皇の鎮魂のために尊氏が指示して編纂された勅撰集と考えても過言ではない。尊氏は帝を敬愛しながらも、帝が怨霊となり害をなすことを恐れたのであろう。
足利直義の和歌「世のために我も祈れば限りある命なりとも長らへやせん(あなたの病気が良くなることを心から祈っています)」は直義の性格がよく表れている一首。
(参考:深津睦夫『中世勅撰和歌集史の構想』)
軍記物語では、悲劇の英雄と対比して憎まれ役になる悪役が登場するのが常であるから、『太平記』に描かれている高師直像も「軍記物語」における憎まれ役(というよりも損な役回り)で描かれているのか。父に溺愛された美貌の五郎師夏、また文化人として教養のある高師直(『大日本史料』より)。康永三年に足利直義が奉納用の和歌を募集した際、高師直も「しらゆきの~」という和歌を詠みわたしているから、足利直義と高師直の仲は最初から悪かったわけではないように思える。また同和歌より師直の贖罪の感情が見え隠れするようにも思える。『太平記』にみえる粗暴な性格の師直との対比が面白い。『太平記』では高師直を悪役にしたいような雰囲気が読み取れるが、実際の高師直が無教養な武人ではなかったため、粗探しをしているようにも感じる。
『源威集』の尊氏は有職故実に通じており、仏事もおろそかにしない人物として描かれている。冷静沈着かつ豪放磊落な性格であり、執着心のない理想的な人物とされている。武略・弓馬に限らず、詩歌管弦・有職故実方面にも教養のある家柄であるとされている。筆者が尊氏に傾倒しているさまがよく見える。
『平家物語』における木曽義仲と『太平記』における新田義貞について。軍記物語の作者の意図について。軍記物語の特徴から比較して考察するもの面白そう。あとは『保元物語』や『平治物語』あたりとも比較できそう。足利尊氏の矛盾の中で面白いところは「後醍醐帝に叛きたくない」という意思がありながらも「直義が死ぬかもしれない」状況に陥ると、「後醍醐帝に叛く」ことも厭わずに出陣するところである。中先代の乱の際も後醍醐帝の言葉を聞き入れず出陣し、鎌倉奪還後は愛弟直義の言に従い鎌倉にとどまり、義貞軍が後醍醐帝の命を受け尊氏討伐の兵をあげた際、一度は出家遁世すると言い引きこもるが「直義危うし」の一報を聞くや否や後醍醐帝に叛くことになろうとも直義救援に向かうのである。この部分から、尊氏にとって一番大事な人間は「直義」であり「後醍醐帝」はその次であるということが伺える。また後醍醐帝びいきの尊氏が『梅松論』では「このたび君花山院に……」のように述べているのも面白い。私には尊氏の性格や物事の捉え方がまったくもってわからない。このつかみどころのなさが当時の人々には頼もしく見えたのではないだろうか。
(参考:加地宏江『中世歴史叙述の展開』)
おのれとや色づきそむる薄紅葉まだこの頃はしぐれぬものを
まだ時雨の冷たい雨も降っていないというのに、うすく色付いた紅葉は、ひとりでに色付き始めたのであろうかというやや妖艶な歌があるのですが、この和歌、紅葉=女性と考えると、まだ男を知らない女が妙に色っぽく見える不思議を詠んでいるように思えませんか?女性との関係は淡白な直義ですが、和歌になると少し大胆になっているのが面白いです。
もう一首
つゆながら千草ふきしく秋風に乱れてまさる花の色かな
露に濡れた草々に、激しく風が吹きつけており乱れる花の様は、より一層美しく見えるものだとあわせて見ると、何やら思い人との逢瀬までの様子を詠んでいるようにも見えてしまって…笑
ただ情景を詠んだだけだろうとは思うのですが、いろいろ妄想を繰り広げてみるのも楽しいです。