足利尊氏の詠んだ和歌で
よしさらば待たじとおもふ夕暮れを又おどろかす入相の鐘
という和歌があるのですが、これがとても可愛いのです。現代語訳としては「諦めるほか仕方がない恋だと分かってはいるのですが、入相の鐘の音を聞くと再びあなたに逢えるのではないかと思って心が揺り動かされることです」が妥当でしょうか。とにかく尊氏の失恋の和歌はとてもしんみりする。愛しい人に逢いたいという気持ちが感じられる可愛い歌です。
今日はもう一首尊氏の和歌を紹介したいとおもいます。
五十路までまよひ来にけるはかなさよ唯かりそめの草の庵に
現代語訳は「早く出家したいと願い続けていたが、この戦乱の世に身を置き続けて悟りを開くこともできず、さびしい心のまま迷い歩んで五十を過ぎてしまったよ」といった感じでしょうか。現世の幸せは弟にすべて与えてください。そして尊氏を出家させてください、という願いとは裏腹に戦乱の渦に身を投じてきた尊氏の心の叫びのように思えてなりません。尊氏自身の心の迷いが表れているようで良い歌だと思っています。
また、足利尊氏の弟である直義が詠んだ歌も魅力的です。
足利直義の和歌は前回も紹介しましたが、
うきながら人の為とぞ思はずは何を世にふるなぐさめにせん
「つらく苦しい世の中だが、これも人のために励んでいるのだと思わなければ、何をこの苦労の慰めにすればよいのだろうか」と
しずかなる夜半の寝覚めに世の中の人のうれへを思ふくるしき
「静かな夜半に目を覚ましては、世の人々の苦しみや嘆きを思いやる。なんとも苦しい限りである」という二首が、為政者・足利直義の苦悩を率直に表現している良い和歌だと思います。直義の和歌は素朴で技巧に乏しいところが見受けられますが、率直で平明なところが直義の好青年ぶりを思わせるようで好きです。
和歌を見ると、情緒深く繊細な詠み方をする尊氏に対して、率直で男らしい詠み方をする直義、という構図が見えてきて足利尊氏・直義兄弟の性格の違いが感じられますね。
次回は直義の恋歌について紹介したいと思います。生真面目そうなイメージを抱かれがちな直義ですが、なかなか艶やかな歌を詠んだりもするので面白いです。
以前、尊氏の和歌について少し触れたので次は直義の和歌を紹介します。題詠であったり、詠進用の百首歌であったりするものの、直義の為人が垣間見えるようで楽しいです。
何かと精神的不安定な部分を指摘されがちな尊氏とは違い、直義は清廉潔白な一本気な男だと解釈されている直義ですが、彼の詠んだ和歌を見てみると、兄尊氏と比べても劣らないくらい病んでるじゃねぇか…と不安になります。尊氏のメンタルだけでなく、直義のメンタルもなかなかに不安定なんです。不安定兄弟。やはり根本的な部分は似ているのでしょうか。
気を取り直して、まずは『風雅集』の一首。
『風雅和歌集』雑歌下・一七九九
述懐の歌の中に 左兵衛督直義
しづかなるよはの寝覚に世中の人のうれへをおもふくるしさ
…暗い。
直義の和歌暗い!尊氏の和歌も暗いけど、直義も暗いぞ!!現代語訳にするなら、静かな夜に目が覚めると、世の中の人々の惨状を憂いては心が苦しくなることだ、でしょうか。為政者の悩みと苦悩がありありと伝わってきますね。しかし、メンタル相当やられてるぞ直義……
同歌集には光厳院(支持している朝廷)をヨイショする直義の和歌も見られます。
『風雅和歌集』雑歌下・一八一九
百首歌たてまつりし時 左兵衛督直義
たかき山ふかき海にもまさるらしわが身にうくるきみがめぐみは
『風雅和歌集』は光厳院親撰の勅撰集なので、光厳院を正統とする直義がヨイショする和歌を詠むのは当然といえば当然なのですが、かなりオーバーリアクションですよね。そんなところも可愛いぞ、直義。現代語訳するなら、光厳院が我々に与えてくれる御慈悲は聳え立つ山々よりも高く、底深き大海よりも深いものに違いないといった感じでしょうか。
話が逸れたので、直義の仄暗い和歌の話に戻ります。次は『新千載』に入集している一首です。
『新千載和歌集』雑歌中・二〇〇三
うきながら人のためぞと思はずは何を世にふるなぐさめにせん
これもまた暗い。秋の夜長に一人悶々と頭を抱えている姿がありありと想像できる和歌です。訳は、この世の中は何事も憂鬱ではあるが、己の苦しみが人の為になるのだと思わなければ、何を生きて行く上での慰めにできるだろうか、という感じでしょうか。自分の行動が正しいのか、間違っているのか、本当に世の人々の為になっているのだろうか、と悩んでいる様子が浮かんできます。みんな、尊氏のメンタルだけではなく、直義のメンタルの心配もしてやってくれ……!と叫びたくなります笑
※独自解釈のトンデモ意訳なので真に受けないでくださいね。
先日は旧八朔でした。
八朔といえば、足利尊氏に関してちょっとしたエピソードがあるのでご紹介します。
旧暦の八月一日には八朔といって、日ごろお世話になっている人へ贈り物をする習慣がありました。人に好かれる足利尊氏ですから、彼のもとには山のような贈り物が届きました。しかし、尊氏はもともと物欲のない性格だったため、貰った贈り物のほとんどを人にあげてしまい、山のようにあった贈り物は尊氏の手元には残らなかったといわれています。
また、足利兄弟の性格の違いがよく表れているのがこの八朔のエピソードで、厳格な性格の弟の直義は八朔の習慣自体を無駄な物だと考えており、贈り物を一切受け取らなかったと言われています。贈り物から政治的な悪い結びつきができると考えたのでしょうか。これもまた普段から禁欲的な直義らしい処世術だと思います。
『梅松論』や『難太平記』には、尊氏・直義ともに私欲のない有難い人物だと描かれています。真逆の性格に見える二人ですが、似ていないようで似ている部分があるのがかわいいですね。
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『梅松論』
或時夢窓国師談義の次に、両将の御徳を條條褒美申されけるに、先将軍の御事を仰られけるは国王大臣人の首領と生るゝは過去の善根の力なる間、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治る職なれば、おぼろげの事にあらず。異朝のことは伝聞計也。我朝の田村、利仁、頼光、保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ばず。治承より以下、右幕下頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自専にして賞罰私なしといへ共、罰のからき故に仁の闕る所々見ゆ。今の征夷大将軍尊氏は仁徳を兼ね給へるうえに尚大いなる徳有なり。
第一に御心強にして合戦の間身命を捨給ふべきに臨む御事度々に及といへども、咲を含て怖畏の色無し。
第二に慈悲天性にして人を悪み給ふ事をしり給はず。多く怨敵を寛宥有事一子のごとし。
第三に御心廣大にして物惜の気なし。金銀土石をも平均に思食て、武具御馬以下の物を人々に下給ひしに、財と人とを御覽じ合る事なく御手に任て取給ひし也。八月朔日などに諸人の進物共数も知らず有りしかども、皆人に下し給ひし程に、夕に何有とも覚えずとぞ承りし。實三の御躰、末代にありがたき将軍也と国師談義の度毎にぞ仰有ける。
『難太平記』
其故は大御所、錦小路殿(割:大休寺殿)の御中違の時も一天下の人の思ひし事は、当家の御中世をめされん事まで、あながちに御兄弟の間をばいづれと不可申とて、両御所に思ひ思ひに付申き。其時も諸人の在様は大休寺殿は政道に私わたらせ給はねば捨がたし。大御所は弓矢の将軍にて更に私曲わたらせ給はず。是また捨申がたしと也。
※錦小路殿=大休寺殿=直義
※大御所=尊氏
尊氏の愛娘、鶴王(頼子)ちゃん。
鶴王といえば、洞院公賢の『園太暦』に可愛いエピソードが載ってますよね。
以下超意訳(笑)
尊氏「自分の娘を書状で『姫君』って呼んだら変かなあ?」
公賢「執柄(摂関)家以外の者が必ず『姫君』呼びしなければならないということはございませんが、まあ自己判断でいいんじゃないですかね」
尊氏「おけまる^^」
尊氏の愛情を一心に受けていた鶴王ですが、文和二年ごろから病気がちになり、尊氏・登子夫妻の必死な祈祷もむなしく、不幸なことに夭折してしまいます。もし無事に成人していたら、どうなっていたのでしょうか。これだけの溺愛っぷりですから、きっと大きくなっても尊氏が手放さないだろうな、と思います。
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『園太暦』原文
廿八日、天陰、鎌倉前大納言逘使者、二階堂安芸守成藤、以人(割:仲康)、問答、男女且可書遺状事
有之、女子姫君之由載之、可爲何様哉云々者、此號執柄家外常不稱歟、但於實儀者强不可有分別之上者、可有賢慮之旨報了